麻酔トラブルは多くの診療科に関連している
麻酔科は、患者さんにとってあまり馴染みのない診療科です。手術をするときの全身麻酔を担当する医師やペインクリニックで開業されている医師もおられます。このケースは局所麻酔薬を使った際に、局所麻酔薬を投与するブロック注射の方法、量、中毒症状出現後の対応などが問題になりました。局所麻酔薬は、麻酔科の医師だけではなく整形外科医や外科医、眼科、耳鼻科、産婦人科、のみならず内科の行う処置でも日常的に扱う薬剤です。ちょっとした傷を縫合するときにも使うものなので、研修医でも日常的に扱う薬剤です。つまり「麻酔トラブル」はすべての診療科が関係するトラブルなのです。
局所麻酔中毒
局所麻酔中毒とは、局所麻酔薬が本来麻酔をする部位だけではなく、血液中に流れていったことで生じる中毒症状のことを言います。局所麻酔を行う際には常に起こる可能性のある症状で、局所麻酔薬を使う医師は、だれでもいつでも念頭においておく必要があります。症状は、局所麻酔薬の血中濃度が高いほど重篤な症状が出現します。低い濃度では、神経の抑制が取れるような作用になり、多弁になったりする興奮状態やけいれんが起こったりします。更に血中濃度が上がると神経が更に遮断される作用によって眠気が出て傾眠傾向になったり意識がなくなったりします。心臓への影響も血中濃度によって始めは頻脈、次第に徐脈になり心停止するようなこともあります。
局所麻酔中毒の準備
局所麻酔中毒では、このような症状が出現することが知られているため,局所麻酔を行う際には麻酔中毒が発生する可能性も考えて、異常が認められた場合には、直ちに救急処置がとれるよう、常時救急処置ができる準備をしておく必要があるといわれています。各種ガイドラインやマニュアル等にも、その旨、詳しく記載されています。
具体的には,局所麻酔を行う際には,事前に静脈路(静脈の点滴ルート)を確保しておき、輸液や薬剤投与が出来るようにしておくこと、挿管器具やマスクなどを備えた救急カートを準備し、呼吸数が低下する状態になれば、バッグ・バルブ・マスク(アンビュー・マスク)や挿管が出来るように準備しておくこと、心停止が起これば除細動器,昇圧剤などの蘇生のための準備をしておくことが当然要求されます。
局所麻酔中毒を起こさないための投与方法
局所麻酔中毒は、局所麻酔薬を誤って血管内等の不適切な部位に注入することにより発生するといわれています。そのため、局所麻酔薬を誤って血管内に投与したり、通常の量でも起こりますが、過量投与した場合には特に発生しやすくなります。そのため局所麻酔にあたっては、必要最小限の量かつ出来るだけ薄い濃度の薬剤を用いる必要があるといわれています。また、血中に局所麻酔薬が入ることで直ちに局所麻酔中毒になるため,注射の際には,注射針が血管などに入っていないかどうかを、注射針挿入後に逆血がないこと確かめて、投与の際には出来るだけゆっくりと患者の状態を観察しながら薬剤を注入する必要があります。また、ブロック注射等麻酔の部位によってはX線透視下やエコーガイドを使って安全・確実に行うべきだともいわれています。
局所麻酔中毒の治療
局所麻酔薬の治療は、血液中に局所麻酔薬がなくなるまでの間、全身状態をサポートすることです。一過性の症状で、麻酔薬はすぐに体内で代謝されて排泄されていくので、血液濃度が下がるまでの間、症状に対応できれば問題なく回復します。けいれんが起これば抗けいれん薬を、低血圧や心停止には昇圧剤を、呼吸不全には呼吸補助としてバッグ・バルブ・マスク(アンビュー・マスク)による換気や気管挿管をして一時的な人工呼吸管理とします。脂肪乳剤の点滴も有効と言われています。
つまり心肺停止時の一次救命処置BLS(Basic Life Support)と同じ対応を行い、必要であれば二次心肺蘇生法ACLS(Advanced cardiovascular life support)を行います。
本件の問題点
このケースでは肩関節の脱臼をした患者さんが自分で歩いて整形外科クリニックを受診しました。肩関節は通常、麻酔薬なしで整復できることがほとんどで、ブロック注射を行うこと自体、異例なことですが、担当した医師は「いつも行っているから」といって十分な説明も行わず実施しました。局所麻酔薬の極量に近い量を、一気に注入し、その後患者さんが大きな声を出したあと、眠気を訴えていびきをするようになりましたが、医師や看護師は局所麻酔中毒だと考えず、車椅子に乗せてレントゲン写真を取ったりしていました。肩関節のレントゲン写真は通常、立って腕を上げたりして撮影します。来院時には立って撮影できていたレントゲン写真だったのに、整復後の写真は、立てずに座ったまま撮影されていました。その後、意識がなくなり、呼吸も止まりました。クリニックでは、局所麻酔中毒に対する準備が全く行われていなかったために、呼吸が止まったときに酸素を送り込むバッグ・バルブ・マスク(アンビュー・マスク)もなく、心臓が止まってしまって驚いて救急車を呼んだという経緯です。救急隊員がアンビュー・マスクは使っていなかった、という報告をしています。そもそも肩関節脱臼に局所麻酔薬を使ったブロック注射をすること自体異例なのに、局所麻酔中毒を起こすリスクの高い投与方法を行い、実際に症状が出現しているのに何の対応もせず、意識がなくなって驚いて救急車を呼ぶ、という医療機関として信じられない対応でした。救急車で別の病院に搬送されたときには、長時間、脳に酸素が不足したことによる低酸素脳症で寝たきりになってしまい、その後、施設でお亡くなりになりました。
裁判手続きと判決までの経緯
このケースでは、訴訟前の交渉ではクリニックが責任を認めませんでしたので、訴訟提起となりました。訴訟中に、クリニック側は局所麻酔中毒になっていない、脳梗塞や心不全が原因だ、というような主張をし始めました。そのため、転院先で保管されていた凍結血清を薬毒物専門の法医学教室で検査してもらい、局所麻酔薬濃度を測定し、注射時の局所麻酔薬の血中濃度を推定した内容の鑑定意見書を作成してもらいました。また、整形外科的には、肩関節脱臼に局所麻酔薬によるブロック注射は行わないこと、行う際の方法も問題があること、注射後の症状は局所麻酔薬の症状で間違いないこと等を経験豊富な整形外科医に意見書として作成してもらい提出しました。これに対しクリニック側は意見書提出を全く行いませんでした。さらに担当した医師と遺族の尋問手続きに進む段階になって、急に相手方から和解したいとの申し入れがありました。ご遺族としてはここまで裁判が長期間進んでから医師の尋問直前に急に和解を求めること自体、許しがたい対応だというお気持ちになられました。和解と判決のメリット・デメリットについてご遺族と競技を重ね、和解には応じない方向で進めることを決めました。また、医師の尋問はなしになりましたが、遺族本人の尋問は遺族の強い希望もあって実現でき、裁判官に無念な思いを伝えた上で判決を頂くことになりました。
富永弁護士のコメント
局所麻酔薬という医師にとっては日常的に使う薬に対して、何の準備もなく、症状が出現しても放置していた対応は非常に問題がありました。病院やクリニックは、局所麻酔薬を使う場面以外でも、救急対応が必要なときに備えて救急カートに緊急時使用する薬剤や道具を準備し、管理しておくことが求められています。今回のケースでは、救急カートに当然準備しておくべきバッグ・バルブ・マスクすら準備されておらず、一時的な呼吸補助を行えばすぐに元気になったはずのところ、寝たきりになって亡くなったという悲惨なケースです。救急カートは、麻酔薬を使う歯科医院でも常備されているものなのに、それすら準備していなかったクリニックの責任は重いものがあります。
また、話し合いで応じず訴訟の最終盤、医師の尋問直前に突然和解を求める、という行動自体、被害に合われた家族にとっては許しがたい対応でした。もっと早い段階で責任を認めて話し合いに応じてもらえれば、事故を起こした医師にとってもご遺族にとっても、これほど辛い遺恨とならなかったのではないか、と感じるケースでした。
局所麻酔は気軽に使われる薬剤です。しかし、麻酔薬である以上中毒はいつでも起こる可能性があります。ちょっとした怪我や処置、胃カメラのときの鼻に入れるゼリーや喉へのスプレーも局所麻酔薬なので、中毒を起こすことはあります。麻酔薬を使って具合が悪くなったような場合には、是非一度、医療専門の弁護士に相談されることをおすすめします